忘れ物

 人間誰しも忘れ物をした経験ってのは
何度となくあるだろう。
そしてその忘れ物が原因で
とても大変な目に遭うってこともまた
何度となくあるだろう。
そう、この日の僕のように。


 帰路。
一日の仕事を終え、駅に着く。
さて帰ったら何をするかなどと
ぼんやり考えながらポケットに手を触れると
あるべきはずものがそこに無い。
その名は家の鍵。


『どういうことだ!?』と一瞬焦るが
思い当たる節もある。
場所はおそらく会社だろう。


それならば取りに戻ればいい
確かにその通りなのだが、
ちょっとした事情があり、
これは断念せざるを得なかった。


 ピンチ、
確かにそうだが、
僕にはまだ勝算があった。
大家の存在である。


大家ならばスペアのキーを持っているだろう。
事情を説明し、それで開けてもらう。
鍵を手に入れたらまた昨日のお礼報告すればいい。
完璧だ、そう思っていた。
だから実行した。


不在。
買い物か何かだろうと思い、
いったん退散。
以後、30分おきぐらいに見に行くが
帰ってきた形跡がない。


『非常にまずい。』
時間はそろそろ夜中にさしかかってきていた。
これ以後大家宅訪問は迷惑だし
宿など、寝る場所を確保しなければならない。


あと1回、ラストチャンス
物語ならここで大家が現れ、
ぎりぎり無事終了となるのだろうが
現実は甘くなく、
この日、その姿を見ることはなかった。



 わずか扉1枚である。
日常との境にあるのは。
ホンの数センチ先には”いつも”があるのに
そこに触れることが出来ない、
すべがないというこの無力感。
あれは辛かった。


 鍵はもちろん会社にあり
それを得た僕は、取り戻したいつもの場所で
これを記している。
人生ってのは色々なことが怒る。
故に面白い。
のど元過ぎたからこそ言えるセリフである。